江戸時代中期に活躍した絵師であり、円山応挙の高弟。
1754年(宝暦4年)京都・篠山に丹波篠山青山下野守家臣、上杉彦右衛門の子として生まれました。
応挙のもとにいつ頃入門したかは定かではありませんが、数多き応挙の子弟の多くは町人である中、武士の芦雪は異色の弟子でした。
師応挙の高度な作風を完璧に身につける卓越した描写力に加え、奇抜な着想と大胆な構図、奔放で独特な画風を創出した芦雪は「奇想の画家」ともいわれています。また、画風と同じくその性格は、酒好きで奔放、快活である一方、傲慢な面があったと伝えられています。それ故か、同時期に同じ京都で活躍した高名な絵師と較べその履歴は少なく不明瞭の中、芦雪については「破門説」をはじめ、さまざまな巷説や逸話、噂、憶測で彩られています。絵画のみならず人物そのものにおいても人を魅了する「奇才」といわれる力が備わっていたのだと思われます。
一般には応挙に入門してから長沢芦雪と名乗られたようです。この芦雪という号は、「芦花両岸の雪、煙水一江の秋」という芦も雪も白一色という意味合いである禅語からとった考えられています。芦雪と号してからは「魚」印を用いており、氷型の枠に入った「魚」字大印は芦雪のシンボルマークともいえる代表的な印章です。この印章についてはこのような説があります。応挙の元、修業中のある冬の朝、芦雪は寒さで張られた氷の中に閉じ込められている魚を見かけます。その帰り道、氷が溶け先の魚が自由に泳いでいる姿に目を奪われます。その話を応挙にしたところ、「苦しい修業時代も段々と氷が溶けるが如く画の自由を得るものである。」と諭されて以来、この印章を生涯使い続けたといわれています。この印は、芦雪40歳を迎える頃の作品からは右肩部分を欠失していますが、果たして自由を得たとの意味合いがあるのでしょうか。
芦雪は、29歳の頃、天明2年(1782年)版「平安人物誌」画家部に名を載せ、絵師として名を成し始めます。また、この頃より多くの禅僧との交際が始まったと考えられます。
1786年(天明6年)、応挙と古く親交のあった愚海和尚が、若き頃に応挙と交わした「蓋し愚海若かりし頃芦雪の師円山応挙と親交あり、或る日応挙和尚に向いひて曰へるやう、師若し他日一寺を建立するあらば、余は必ず寺のために揮毫を惜まざるべし」との約束をもとに無量寺再建成就の際、本堂の襖絵の依頼のため応挙を訪ねます。応挙は祝いに『波上群仙図』や『山水図』等、障壁画12面を描きましたが、多忙な上に年齢的なこともあったため、弟子芦雪に障壁画を託し、名代として京から南紀に向かわせます。それは芦雪33歳の頃、兄弟子たちを飛び越えた異例の抜擢でもありました。
愚海和尚に同道し南紀に下った芦雪は、自らも本堂のために襖絵を描き数々の力作を残します。師の応挙や寒い京から遠く離れ、雄大な自然を有する温暖な串本で芦雪はまるで解き放たれたように一気にその才能を開花させました。激変した新たなる画風からは、時には応挙さえも越えんとする才能が溢れ出、当院所蔵である芦雪の代表作でもある『虎図』『龍図』など多くの逸作からその奇才の様が伺えます。
無量寺滞在中も酒好きで奔放な芦雪は、襖絵にとりかかることなく随分と酒を楽しんでいたかと思うと、一気に筆を走らせ大作を描いたという奇才ぶりが伝えられています。約十ヶ月間の南紀滞在中に270点余りもの絵を描き、この頃は芦雪の人生の絶頂の期とも云われ、無量寺の他に、古座の成就寺、富田の草堂寺、田辺の高山寺、他個人のために数多く作品を残しています。
芦雪の画風は概して快活で明るいのが特徴ですが、晩年の頃からは時折、『山姥』のような作品からも見受けられる陰惨なグロテスクへの傾倒が印象付けられており、晩年期においての芦雪の心境の変化についてさまざまな憶測が拡げられています。
1799年(寛政11年)、芦雪46歳で大阪において客死します。一説には周囲の嫉妬や憎しみによる毒殺であったとも、自殺であったともいわれる芦雪の死は謎に包まれ、死についてまでも異常であったと逸話が残されています。
1733 (享保18年) |
1歳 | 5月1日 丹波国穴太村に生まれる。 | ||
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1747 (延享15年) |
15歳 | 玩具商「尾張屋」で人形制作や彩色などを手がけるという。 | ||
1749 (寛延2年) |
17歳 | この頃、画家石田幽汀の門に入る。 【円山岩次郎】の署名。 |
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1歳 | 丹波国篠山に生まれる。 父上杉彦右衛門(丹波篠山青山下野守家臣)。後に淀藩に仕えたため、芦雪は淀で育つ。 芦雪の名は、【政勝】【魚】、字は【氷計】【引裾】【干洲】【漁史】、号を芦雪と称す。 淀藩長沢家の養子となる。 |
1754 (宝暦4年) |
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1755 (宝暦5年) |
23歳 | この頃、【氏】【一嘯】の署名。 | ||
1759 (宝暦9年) |
27歳 | この頃、「眼鏡絵」の制作に携わるという。【夏雲】【主水】の署名。 | ||
1765 (明和2年) |
33歳 | この頃より、【仙嶺】を使用。
円満院門主祐常との関係はじまる。 《破墨山水図》(三井記念美術館)、 《淀川両岸図巻》(アルカンシェール美術財団)、《雪中老松図》(東京国立博物館) |
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1766 (明和3年) |
34歳 | この頃、名を「応挙」と改名。 | ||
1767 (明和4年) |
35歳 | 《大石良雄図》(百耕資料館)、《岩頭飛雁図》(円満院) | ||
15歳 | 玩具商「尾張屋」で人形制作や彩色などを手がけるという。 | 1768 (明和5年) |
36歳 | 「平安人物志」画家部に記載。 京都四条麩屋町に住む。《七難七福図巻》(相國寺) |
1769 (明和6年) |
37歳 | 《円満院雪之間襖絵》を描く。 《雨中山水図》(個人)、《雪中山水図》(相國寺)、《芭蕉童子図》(個人)、《雪景山水図》襖(千葉市美術館) | ||
1770 (明和7年) |
38歳 | 《人物正写惣本》(天理大学附属天理図書館)、《写生図館》(西村氏) | ||
1771 (明和8年) |
39歳 | 《牡丹孔雀図》(相國寺) | ||
1772 (安永元年) |
40歳 | 《大瀑布図》(相國寺) | ||
1773 (安永2年) |
41歳 | 《雲龍図》(個人) 円満院門主祐常51歳没。 |
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1775 (安永4年) |
43歳 | 「平安人物志」に画家部の筆頭に掲載。 | ||
1776 (安永5年) |
44歳 | 《雨竹風竹図》(円光寺)、《昆虫写生帖》(東京国立博物館)、《籐花図》屏風(根津美術館) | ||
1777 (安永6年) |
45歳 | 《双鶏図》衝立(八坂神社) | ||
25歳 | 《東山名所風俗図》 | 1778 (安永7年) |
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1779 (安永8年) |
47歳 | 《琴高仙人図》衝立(静嘉堂文庫美術館)、《抗元先生・端淑孺人像》(東京国立博物館) | ||
28歳 | 《猛虎図》(個人) この頃、既に京都に住む。 |
1781 (安永8年) |
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29歳 | 「平安人物志」画家部に載る。 京都御幸町御池下ル町に住む。 《西王母図》(個人)、《牡丹孔雀図》(プライス・コレクション) |
1782 (天明2年) |
50歳 | 「平安人物志」に画家部の筆頭に掲載。 《楊貴妃図》(個人) |
30歳 | 妙心寺海福院斯経の庵の白壁に黒龍図を描く。 《龍図》襖絵(松江西光寺)はこの頃より南紀遊淙までの間と考えられる。 | 1783 (天明3年) |
51歳 | 「平安人物志」に画家部の筆頭に掲載。 《太夫図》(個人) |
1784 (天明4年) |
52歳 | 「愛知明眼院」の障壁画を描く(現・東京国立博物館応挙館)。 この頃より、源姓を名乗る。 《五羽鶴図》(白鶴美術館)、《雲龍図》(三井記念美術館)、《薔薇文鳥図》《朝顔図》(相國寺) |
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1785 (天明5年) |
53歳 | 《雪梅図》襖(南紀・草堂寺)、《神州和尚像》(慈氏院) | ||
33歳 | 斯経が《隻履達磨図》(豊橋市美術博物館)に賛。 師応挙の命を受け無量寺愚海和尚に同道して南紀に下り、串本無量寺再建の祝盃、祝画を携行。 《龍虎図》襖他四十四面(無量寺)、《唐獅子図》襖他四十面余(成就寺)描く。 この頃、《絵変わり図屏風》(個人)、《月竹童子図》屏風(個人)、《群猿図》屏風(草堂寺)。 |
1786 (天明6年) |
54歳 | 《波上群仙図》襖、《山水図》等を長沢芦雪に托し無量寺再建を祝って愚海和尚に贈る。 《雪中山水図》(個人)、《虎嘯生風図》(東京国立博物館) |
34歳 | 《岩上白猿水辺群猿図》屏風、《朝顔図》襖絵他四十面余(草堂寺)描く。 高山寺(田辺)に滞在し《寒山捨得図》等襖や屏風を描く。 |
1787 (天明7年) |
55歳 | 南禅寺帰雲院障壁画を描く。《遊鶴図》《遊虎図》襖(金刀比羅宮)、《山水図》《郭子儀図》襖( 大乗寺) |
1788 (天明8年) |
56歳 | 天明の大火に遭い、喜雲寺に避難、呉春と同居する。 《群仙図》《山水図》《波濤図》襖(金剛寺) |
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36歳 | この頃、奈良へおもむく。 《鯉魚図》(個人) |
1789 (寛政元年) |
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37歳 | 応挙一門として御所の障壁画を制作する。 父没。 |
1790 (寛政2年) |
58歳 | 御所造営に際し一門を率いて障壁画を制作する。 |
38歳 | 娘二歳で死去。 | 1791 (寛政3年) |
59歳 | 東本願寺岐阜別院の障壁画を描く。(現・東本願寺桜下亭)大乗寺のために描く。 |
39歳 | 《猿図》(日枝神社) | 1792 (寛政4年) |
60歳 | 《郭子儀携小童図》(東京国立博物館) |
40歳 | 氷形【魚】字印右肩欠損。 息子二歳で死去。 |
1793 (寛政5年) |
61歳 | この年、老衰のため歩行視力衰う。 |
41歳 | 冬、広島に滞在。 《厳島八景図》(個人)、《富士越鶴図》(個人)、《朧月図》(個人) |
1794 (寛政6年) |
62歳 | 《江口君図》(静嘉堂文庫美術館)、《楚蓮香図》(白鶴美術館)、《瀑布図》《竹林七賢図》《山水図》襖(金刀比羅宮)。 この頃、《四季の月図》(白鶴美術館)、《日月山水図》屏風(個人) |
42歳 | 《群猿図》(大乗寺)、《花鳥蟲獣図巻》(千葉市美術館) この頃、第二期正宗寺(豊橋)障壁画。この年刊行の「東遊記」に挿絵を描く。 |
1795 (寛政7年) |
63歳 | 《松孔雀図》襖《鍾馗図》(大乗寺)、《保津川図》屏風(個人)。 7月17日没。四条大宮西入悟真寺に葬る。法名・円誉無之一居士。 |
43歳 | 東山新書画展に《墨画東坡》を出品。 | 1796 (寛政8年) |
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44歳 | 《山姥図》(厳島神社) | 1797 (寛政9年) |
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45歳 | 東山新書画展に《方寸五百羅漢図》を出品。 《方広寺大仏殿炎上図》(個人) ※寛政後期の作品に《大原女図》(静岡県立美術館)、《関羽図》(厳島神社)、《幽霊図》(奈良県立美術館)、《月に郭公図》(高津古文化会館)、《月夜山水図》(頴川美術館)、《赤壁図》屏風(個人)。 |
1798 (寛政10年) |
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46歳 | 六月八日、大阪で没。 京都回向院に葬る。法名・南舟院澤誉長山芦雪居士。 |
1799 (寛政11年) |
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