錦江山無量寺は、本土最南端の地である和歌山県東牟婁郡串本町に在る、虎関禅師の開山による臨済宗東福寺派の別格寺院です。
もともとは、現在地から少し離れた袋という小さな入り江の地区にあり、その地形故にたびたび津波の被害にあいましたが、宝永4年(1707年)10月の宝永地震による大津波で全壊・流失してしまいました。その後、流出した無量寺の再建の使命を帯びた臨済宗白隠下の禅僧、文保愚海和尚が入院(じゅいん)し、大津波より79年後の天明6年(1786)、辛苦の末、現在の位置に本堂再建の業を果たされました。
愚海和尚は京都の本山東福寺に留錫中、若き画家円山応挙と親交あり、『紀伊国名所図会』において、「蓋し愚海若かりし頃芦雪の師円山応挙と親交あり、或る日応挙和尚に向いひて曰へるやう、師若し他日一寺を建立するあらば、余は必ず寺のために揮毫を惜まざるべし」との約束を交わしていました。そして、ついに約束を果たす頃がきたのです。その約束をもとに、無量寺再建成就の際、愚海は本堂の襖絵の依頼のため応挙を訪ねます。応挙は祝いに障壁画12面を描きましたが、多忙な上に年齢的なこともあったため、弟子芦雪に障壁画を託し、名代として京から南紀に向かわせました。
派遣された芦雪は、自らも本堂のために襖絵を描き数々の力作を残します。師の応挙や寒い京から遠く離れ、雄大な自然を有する温暖な串本で芦雪はまるで解き放たれたように一気にその才能を開花させました。激変した新たなる画風からは、時には応挙さえも越えんとする才能が溢れ出、当院所蔵である芦雪の代表作でもある『虎図』『龍図』など多くの逸作からその奇才の様が伺えます。約十ヶ月間の南紀滞在中に270点余りもの絵を描き、この頃は芦雪の人生の絶頂の期とも云われています。
その後、襖絵は永きにわたり歴代の住職・地域の人々の弛まぬ努力と熱意によって自然災害や時には戦火の中を大切に守られてきました。しかし無常故に、経年とともにだんだんと破損が目立ってき、その現状を憂えた串本町の有志やこの地に宿縁のある方々をはじめ、町ぐるみの協力により、昭和36年(1961年)、無量寺境内の一角に「串本応挙芦雪館」が開館しました。それは実に、"寺に伝わる宝物を大切にする!”という単純素朴な発想から、町中の人々が自分たちのために一致してつくりあげた現代では珍しい精神共同体的産物であり美術館建設のケースでも異例でした。
そして1979年、応挙・芦雪の襖絵55面は国の重要文化財の指定を受けることになり、1990年には美術館設立に続き、国・県・町の補助を得て収蔵庫を建設され、よりよい状態の中で手厚い保護が可能となりました。
しかし、無量寺・町の人々の希いはそれだけにとどまらず、明治時代に襖絵が取り外されてから100年余、かねがね寺本来の姿をよみがえらせたいと思いを募らせており、「串本応挙芦雪館」開館50周年を機に、かつては想像にもよらなかったデジタル再製画を制作し、無量寺にゆかりある方々、町ぐるみの協力のもと、元あった方丈へ収める事業をはじめました。約2年の制作期間を経て、2009年10月、正に時代の変化と進化の中、生み出された優れた最新の技術を持って、感嘆と賞賛の声とともに方丈に襖絵をよみがえらせることができました。
これら数多くの所以があり、お陰様で町ぐるみの寺として、常に向上心を持つ地元の人々を中心に守り続けられている無量寺は、別名「芦雪寺」と呼ばれ、単に「寺宝」「地元の宝」としてのみならず、他府県、国内外の多くの方々に知られ親しまれております。
2020年11月3日 東谷宗弘和尚の入寺式が執り行われました。
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